学歴

・井上小学校

・津幡中学校

・金沢泉丘高等学校卒業

・金沢大学文学部行動科学科 社会学専攻

 

 

小学校時代

昭和39年 津幡町生まれ。のどかな農村地帯で、井上小学校はずっと1学年1クラス。

 

校舎は木造だった。懐かしい。

 

田んぼの畔の穴に手を突っ込んでザリガニを取り、川も潟もある。

 

草野球、運動上で遊ぶ、自転車で遠乗りする。

 

特に、上の学年の方には、よく遊んでもらった。

 

日曜日の朝、自転車でみんなを呼びに行って、野球して、あきたら、また違う遊びして。

 

火遊びが芋づる式に見つかり職員室の時計の下で休み時間ごとに正座しにいったこともある。

 

土曜は半ドンで、夜は8時だよ全員集合をみて、日曜も子どもらで遊んでいた。

 

子どもらの世界があった。

 

自宅には風呂はなく、共同風呂がいくつかあり、子供会の単位となり、

 

盆踊り、ソフトボール、相撲大会、卓球大会、イベントがあった。

 

学校もカリキュラムに余裕があったのか、運動会の練習などはかなりの時間使っていた。

 

子どもにすればうれしいのである。

 

先生もよく付き合って遊んでくれた。

 

下宿していた先生の部屋に勝手に入っていき、起こしにいっていっしょに遊んでくれた。

 

昔は、どこも鍵がかけない。帰ってきたら、台所に野菜や餅が置いてあった。

 

猪木とモハメドアリの一戦は職員室のテレビで見ていた。

 

学校は遊び場だったのだろう。

 

小学校はただ楽しく遊んでいた感じだった。

 

「学校は楽しい」だけあればいいと思う。

 

「夢見る小学校」のとおり。

 

 

中学校時代

いきなり8クラス320人になり大変なところに来たなあと思った。

 

緊張感があった。小学校とは違う。厳しいという感じ。

 

でも慣れてくるとだんだん楽しくなる。

 

だんだん華やいでいく。

 

3年生ともなると受験もあったが、学年中、みんな楽しい雰囲気があった。

 

野球部も仲間意識がよかった。

 

先輩にはいろいろ教えてもらい後輩はいいひとばかり。恵まれていた。

 

音楽の洗礼を受ける。

 

KISS。クイーン(ボヘミアンラプソディーのバンド)、ベイシティローラーズ。

 

松山千春、さだまさし、中島みゆき、アリス、ツイスト、ザ・ベストテン。

 

昼の校内放送でかかったビートルズの「HELP」が、なんといいメロディなのだろうという記憶が残っている。

 

レコードコンサートというイベントがあった。

 

聞きたい曲をリクエストしてレコードを持ち寄って、音楽室でかけていく。

 

自分たちが好きなロックやポップスが学校で大音量で流れる。

 

「ホテルカリフォルニア」が流れる。

 

自由な解放感、楽しいイベントだった。

 

先生にやれと言われ、生徒会長となる。

 

球技大会とか文化祭とかイベントもあり日常的に楽しい雰囲気があった。

 

時代がそうだったのか。恵まれていたのか。

 

管理が緩かったのかわからない。でも「学校は楽しい」感じがたくさんあった。

 

 

高校時代

田舎者が、朝6時半の汽車とバスで金沢市へ。

 

いきなりアウェイ感に襲われる。

 

街の人は塾に行っているものだとは知らなかった。津幡にはなかった。

 

シェークなるものを初めて食べた。美味しかった。びっくりした。

 

カツカレーは、超うまいと思った。給食のカレーや家のカレーとは違う。

 

都会はすごいと思った。

 

慣れてくると街も楽しい。香林坊、片町。

 

喫茶店、立ち読み、レコード、楽器、犀川で寝ころび、やや反体制派的になってくる。

 

日本文学のほか、いろいろ読書をするようになった。

 

ロック、ポップスが流行っていた時代。

 

サザン、達郎、洋楽は、ビートルズ、ローリングストーンズ、プログレなど遡って聴いた。

 

活動再開したジョンレノンが射殺される。

 

日本公演や金沢も来るのではないかと期待していたのに。

 

VANVANというレコード店に、

 

ジョンとヨーコのダブルファンタジーのキスシーンのジャケット。

 

NHKの600こちら情報部でニュースが流れ、友達から電話がかかってきた。

 

現実にこんなことが起こるのかと思った。

 

受験勉強なるものをやった。試験に出る英単語。

 

クラスの女の子とクイズしたり楽しかった。

 

やっぱり、だんだん華やいでいく。

 

記念祭はよかった。青春を感じた。

 

クラスの仲間の暖かい雰囲気があった。

 

学校というものは、面白いことがたくさんあるところだった。

 

 

大学時代

社会学というものを学んだ。

 

「複数の人間が織りなす社会事象を総合関連的に説明する学問」

 

わかりやすいのは、「病理社会学」。

 

犯罪やいじめなどをデータ、事例を並べ因果関係を明らかにする。

 

都市社会学、農村社会学の先生についた。

 

どのフィールドでも社会構造を考える。

 

土台が経済構造。歴史の変化。なぜ現在この事象が起きているか。

 

例えば、資本主義の不均等発展。

 

日本なら東京に人口、産業が集中し、田舎から人が流れていく。

 

同じ構図が、石川県の中で金沢市に集中し発展していく。

 

奥能登など離れるほど不利。不均等に発展していく。

 

能登島の調査に行った。夏の能登島、泊まり込みで3泊4日。

 

三重大学の学生と先生も一緒に。

 

都会の女子大生は素敵だった。夏の良い思い出。ありがたい。

 

当時は、中曽根内閣の行政改革の時代。

 

ちょうど、経済世界一になった日本型資本主義が、つぶされにかかる頃。

 

大学にはまだ革マル派の残党のような運動している学生がいた。

 

当時から、先輩から、世界統一教会(勝共連合)の勧誘には気を付けるように言われていた。

 

絶対、ついて行くなと。洗脳されてしまうから。

 

大学が街の中にあり、歩いて香林坊、片町に行けた。喫茶店、本屋、飲み屋。

 

大学と街と同じ結界のような雰囲気があった。青春を感じた。

 

大変良い時代だった。

 

日本の経済が、強かったからである

 

強い日本経済に守られていたのである。

 

明治、大正、昭和の魂の経営者と頑張る日本の先人の御蔭様なのである。

 

ありがたいことである。

 

 

職歴

 

・北陸郵政局

現場は楽しく生き生きと働いていた。

 

決められたコース通り、事務方になり、これは自分には合わないと思った。

 

ノイローゼ気味になり退職した。

 

皆さんに申し訳ないと思った。

 

親友のひでが、夜心配してきてくれた。ひとりで泣いた。

 

 

・石川生活協同組合

朝から晩まで働いた。食品添加物はよく勉強した。

 

食品サンプルをもって、夜の21時でも金沢の山奥の家に営業するくらいよく働いた。

 

ある地区の運営委員会のお母さんたちはパワフルだった。

 

いっしょに営業をやってくれた。主婦のチームワークの凄さを知った。

 

退職した後に、「なんで中島を辞めさせたのだ」とこの地区の女性運営委員長が理事長に食って掛かったと後で聞いた。

 

ありがたくこの時代のこのメンバーでの経験はずっと忘れられない。

 

本当にありがとうございました。

 

 

・アドック(学習塾)

能登の生徒はみんないい子ばかりだった。

 

バレー部のキャプテンしていた頑張り屋の生徒から「ミスチル」のCDを聞けと貸してくれた。

 

ファーストとセカンドアルバムだった。

 

その数年後、私の長男はハイハイしながら、親父の聞く音楽に「ミスキル」「ミスキル」とか言って反応していた。

 

私の家族が全員ミスチルファンになったのは、この女生徒の御蔭様である。

 

2022年大阪ドームで家族全員が当選してミスチルを見ることになった。

 

こんなありがたい奇跡的な経験が30年後に起こったのである。

 

生きていてよかった。感謝。

 

一人の生徒とのありがたいご縁の御蔭様なのである。

 

ありがとう能登のこどもたち

 

 

・冠婚葬祭業のオークス株式会社

介護事業部で26年間、患者搬送、訪問入浴、福祉用具レンタル、介護用品店あっぷる、リハプライド小坂(運動型デイサービス)で介護サービスに従事する。

 

特に訪問入浴サービスは、人生の終末期の方や人口呼吸器をつけた障害の子どもさんや神経難病のまだお若い方などをお部屋でお風呂に入れながら、背中で緊張感や悲しみやご家族の思いを感じた。

 

ひとりひとりの物語、いろんな境遇の家族がいらっしゃる。

 

ありがたい経験をたくさんさせていただいた。

 

一般のひとには、死は非日常的なこと。葬儀と介護。

 

私にとっては、死は身近で日常的で毎日向き合っているものであった。

 

お亡くなりになる1時間前にお風呂を入れたこともあった。

 

医師の前で亡くなる瞬間に立ち会うこともあった。

 

エアマットからご遺体を下すことが年に何回もあった。

 

死は必ず生きとし生けるものに起こる出来事なのである。

 

いつでも覚悟をしているべきなのである。

 

最後は、本社で介護事業部長として、富山、金沢、七尾の3地区の運営に携わり本当にお世話になった。

 

オークスでの経験は死んでも忘れられないありがたい経験でした。ありがとうございました。

 

令和4年10月、政治活動を決心し、退職した。 

 

 

共同風呂

村に6つの共同浴場があった。

 

30件ぐらいで回していたのだろう。

 

壁に名札がかかっていた。

 

5時ごろ、風呂当番が沸かして、最後、22時に掃除をしにくる。重油で炊くボイラーの音が怖かった。

 

相撲のときは、18時すぎに、じいちゃん方が寄ってきて、相撲談義を交わしていた。村の社交場である。女風呂の会話が

 

聞こえて男風呂と掛け合い漫才のような感じもあった。

 

4歳ごろまで母親と女風呂に入っていた記憶がある。

 

子どもなりに恥ずかしくなり男風呂に行くようになった。

 

小さい頃は、湯船に潜ったり、おしっこをしたりして、よく叱られた。

 

ほかの共同浴場も行った。

 

中学のころから、自宅風呂の改修が進み、少しずつ減っていき、閉鎖された。

 

まさに村落共同体で私は育てられたのだった。

 

 

消防団

地元の井上消防団に28年在籍した。

 

ポンプ車操法は、2番、3番、4番(機関員)、指揮者とひととおりやりました。

 

「火点は前方の標的、水利はポンプ車右側後方~ 乗車。」「よし」。

 

火事の出動、捜索隊、消火栓点検、今後、災害に必要な組織と思う。

 

本当に災害や有事や食料パニックなど起きたらどうするのだろう。

 

消防団のほか、地域の共同体意識、顔の見える関係、あの人は安心みたいな関係が必要。

 

分断ではなく集まりである。危機の時こそ。

 

消防団は、一部の人に負担が重くならないよう考える余地がある。

 

 

ジュニアサッカー

子どもの関係で、保護者会、PTAなどやってきたが、長男次男が小2からやりだしたジュニアサッカーには大変すばらしい経験をさせていただいた。

 

コーチ陣や父母会の仲間にも恵まれ、一生ものの思い出をいただきました。

 

そのまま津幡南中学サッカー部でも、父母会長等役員をしました。

 

王者、星稜中学との試合、先制したことがあった。

 

リードしている10分間は、夢のような感覚だった。

 

親の仲間との交流など楽しいことばかりでした。

 

振り返ると本当に恵まれた楽しい思い出ばかりで、ご縁に感謝。

 

みなさま本当にありがとうございました。地元に恩返ししたい。